体力(フィットネス)とは何か? ~乳酸閾値(LT)~
■乳酸閾値(LT)
乳酸閾値(LT)について説明すると、たいてい長引いて複雑になります。なぜなら説明を理解するには、運動生理学がわかっていることが非常に重要だからです。ここでは、説明が長くならないようにします。そして説明の途中で2つか3つ、ヒントを用意します。もしその前に理解できたとしても、新しい、おもしろい発見が、何かしらあるでしょう。
まず、用語の話です。インターバルトレーニングや短く速いレースで「一線」を越えようとするとき、体内ではさまざまな変化が起きますが、科学ではこれを、いくつかの名前を使って表現します。このような高強度の運動による変化が積み重なると、呼吸数が急激に増加し、強度が非常に高く、続行できないと感じます(10段階の主観的運動強度<RPE:Rating of Perceived Exertion>では、6または7くらいです)。そして、おそらく活動筋には焼けるような感覚さえあると思います。研究者はこの状態を、「無酸素閾値(AT)」「乳酸閾値(LT)」「最大乳酸定常値(MLSS)」「血中乳酸値上昇開始点(OBLA)」といった名前で表現します。どの名前が使われるかは、その「一線」をどのように、そしていつ測定するかによって違います。これらの用語はすべて、若干前後はするものの、運動強度が7と感じる時点を表します。研究者は、1つの用語を使うメリットを、他の用語と比較しますが、本書では、こうした意味論にはこだわりません。
しかしさらに複雑なのは、LTには2つあるということです。1つはきわめて低い強度で起きます。これについてはあとで説明しますが、だいたい「有酸素性作業閾値(AeT)」と呼ばれる強度です。ですから、VO2maxを測定してもらい、LTが知りたくなれば(きっとそうなると思います)、試験者が両方とも測定できるかどうか、聞いてみましょう。もしできる場合は、おそらく呼気分析テスト(マスクをして酸素量を測定する)を受けることになり、実際のLTのテスト(指先や耳たぶから血液を微量採取して乳酸濃度を測定する)はしないでしょう。そして試験者は、我々が知りたい値のことを「無酸素閾値」と呼ぶと思います。それでも構いませんし、混乱は避けられます。この場合、必ず「有酸素性作業閾値(AeT)」も測定してくれるように頼みましょう。2つともトレーニングで使いますが、高い値のほうが、より重要です。
確かにまぎらわしい問題です。それは研究者も同じです(8)。
しかし、トレーニングを理解するために、運動生理学の専門家になる必要はありませんし、高額なテストを受ける必要もありません。VO2maxと LTの確認ができるフィールドテストがありますので、その方法については別途紹介します。それでも、LTという比較的高い強度で運動しているときに何が体内で起きているか、少しわかっていれば、確かに役に立ちます。ですから、「運動生理学入門」をここで開講しましょう。科学的に掘り下げなくてもいいという人は、この部分をとばして「エコノミー」の項に進んでも結構です。
筋肉が糖(正確にいえば、グリコーゲンという筋肉に蓄えられたかたちの糖)を使ってエネルギーを生みだす際、筋細胞内には、乳酸という副産物も産生されます。運動の強度が増すと、この乳酸は筋細胞から滲み出し、筋細胞を取り巻く体液を経て血流へと流入します(高校の化学か生物で習った、浸透を覚えているでしょうか)。乳酸は滲出すると化学組成が変化し、水素イオンを放出します。この時点ではしばしば乳酸イオンと呼ばれます。この乳酸イオンは、機能がよく理解されていなかったこともあり悪者にされていますが、実は運動をしている体にとっては役に立つ物質です。なぜなら乳酸イオンを利用してエネルギーがさらに産生され、それによって運動を続けることができるといえるからです。つまり、通説とは異なり、乳酸イオンは疲労や筋肉痛の原因ではけっしてないのです。運動の邪魔をする犯人は、乳酸イオンではなく、水素イオンです。水素イオンが蓄積すると、活動筋を取り巻く環境は酸性に傾きます。これが高強度の運動時に体験する、焼け付くような感覚と激しい呼吸の原因となるのです。
血中乳酸値の測定は、体内に存在する水素イオンの量を予測する、便利な方法の1つに過ぎません。運動の強度が高くなるほど、より多くの乳酸イオンが血中に放出され、筋収縮を阻害する水素イオンが増えます。強度が低く、LTを下回るときは、体は水素イオンを問題なく除去することができます。しかし、LTを超えると、水素イオンは蓄積し始め、呼吸が荒くなり始めます。体は激しく呼吸をすることで、水素イオンを取り除こうとするのです。酸素をより多く取り入れるためではありません。トレーニングを積んだアスリートであれば、ほかの方法で蓄積した水素イオンを処理することができます。つまり耐性を高めるのです。基本的には(高いほうの)LTあるいはそれに近い強度でトレーニングをすれば、水素イオンが及ぼすマイナスの効果に体はあまり反応しなくなるのです。
この、水素イオンが蓄積し始める時点での心拍数、パワー、ペースが、LT強度というものです。VO2maxに対する LTの割合が高いほど、体力があり、レースの記録も速くなります。ランニング、トライアスロン、自転車のタイムトライアルなど、強度が一定の種目ではなおさらです。
体力レベルの高いアスリートの場合、LTは VO2maxの約80%で出現するのがふつうです。VO2maxが等しい2人のアスリートがいたとしても、VO2maxに対する LTの割合を比較すると、より高かったり低かったりすることがあります(9)。そしてその割合が高いほど、きつい強度でより速く、より長く運動することができるのです。VO2maxの強度では、ふつうは4、5分程度しか運動を持続できないかもしれません。しかし、トレーニングを積んだアスリートは、LT強度の運動を約1時間続けることができます。これが AeT(低いほうの LT)の強度となると、数時間可能になります。
高いほうの LTでの運動時間は1時間がリミットだということは、多くの人に共通しており、それを表す新しい用語があるくらいです。その用語を作ったのは、『パワー・トレーニング・バイブル』(OVERLANDER株式会社)の著者である、アンドリュー・コーガンとハンター・アレンです。この言葉を使えば、面倒な科学用語を知っておく必要はまったくありません。彼らが作った言葉、それは「機能的作業閾値パワー(FTP)」というものです(10)。これは、1時間持続可能な、自転車の平均パワー、あるいはランニング、水泳、ボート、ノルディックスキーの平均ペースを指します。単純です。それに運動生理学の知識も要りません。
この機能的作業閾値という言葉は、パワーやペースだけでなく、ほかのかたちにも応用することができます。たとえば、心拍数を使ってトレーニングゾーンを決める場合、「機能的作業閾値心拍数(FTHR)」は、1時間かかるレースの強度における平均心拍数とイコールです。簡単ではありませんか? FTHRは競技に特異的ですので、ボート、ノルディックスキー、水泳、自転車、ランニングと、それぞれ FTHRは違う数値になるでしょう。したがって、心拍ゾーンも競技によって異なります。機能的作業閾値についてはのちほど再度取り上げ、フィールドテストで決定する方法、そしてその結果をトレーニングとレースに活用する方法を説明します。
※この記事は、『50を過ぎても速く!』篠原美穂訳・OVERLANDER株式会社(原題:『FAST AFTER 50』ジョー・フリール著・velopress)の立ち読み版です。『50を過ぎても速く!』は、アメリカを代表する持久系スポーツコーチであるジョー・フリールが、サイクリスト、ランナー、トライアスリート、水泳選手、スキー選手、ボート選手など、すべての持久系競技のアスリートのために、最新の研究をベースにして、「50歳を過ぎてもレースで力強く走り、健康を維持する方法」をわかりやすく解説した好著です。
※本件記事用に、本文を一部加筆修正しています。
■著者:ジョー・フリール(Joe Friel)
ジョー・フリールは、TrainingPeaks.comおよび TrainingBible Coachingの共同創立者です。運動科学の修士号を持つフリールは、1980年から持久系アスリートの指導にあたってきました。彼の教えを受けたのは、自転車、マウンテンバイク、トライアスロン、ランニング、ボート、馬術の選手などであり、年齢もさまざま、初心者からエリートまでとレベルも幅広く、アマチュアもプロもいます。なかにはアイアンマン・レースの優勝者、米国内外のチャンピオン、世界選手権代表、そしてオリンピック代表もいます。
フリールの作品は以下のとおりです。『サイクリスト・トレーニング・バイブル』(OVERLANDER株式会社)、『トライアスリート・トレーニング・バイブル』(OVERLANDER株式会社)、『The Mountain Biker's Training Bible』、『Cycling Past 50』、『Going Long』(共著)、『The Paleo Diet for Athletes』(共著)、『Your First Triathlon』、『Your Best Triathlon』、『The Power Meter Handbook』、『Precision Heart Rate Training』(寄稿)、『Total Heart Rate Training』『Triathlon Science』(共同編集)。フリールはまた、米国トライアスロン指導者委員会の設立に携わり、会長を2期にわたってつとめました。
そのほか、『Inside Triathlon』、『Velo News』をはじめとする、200を超える雑誌のコラムを執筆するかたわら、米国以外の雑誌やウェブサイトにも頻繁に記事を寄稿しています。持久系競技のトレーニングに関して、さまざまなメディアから意見を求められており、紹介記事が掲載された雑誌は、『Runner's World』、『Outside』、『Triathlete』、『Women's Sports & Fitness』、『Men's Fitness』、『Men's Health』、『American Health』、『Masters Sports』、『Walking』、『Bicycling』といった専門誌から、『The New York Times』、『Vogue』にまで及びます。
フリールはこれまでに、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカ、太平洋地域でキャンプを主催し、アスリートはもとよりコーチにも、トレーニング、レースについて指導を行っています。また、フィットネス産業や政府機関のアドバイザーとしても活躍しています。
エイジグルーパーとしては、コロラド州マスターズ選手権優勝、ロッキーマウンンテン地区、サウスウェスト地区のデュアスロンエイジ別優勝などの戦績を誇り、全米代表チーム入り、世界選手権出場の経験もあります。現在は、サイクリストとして米国の自転車レースシリーズやタイムトライアルにも参加しています。
■訳者:篠原美穂
慶應義塾大学文学部(英米文学専攻)卒業。主な訳書に『アドバンスト・マラソントレーニング』、『ダニエルズのランニング・フォーミュラ』、『はじめてのウルトラ&トレイルランニング』、『ランニング解剖学第2版』(以上、ベースボール・マガジン社)、『トライアスリート・トレーニング・バイブル』(OVERLANDER株式会社)などがある。